連続幼女殺害事件

 最高裁の死刑判決。
 まあ、死刑という結果そのものは当然かと思う。月並みだが四人殺したのだから。

 だけど、何より私が思うのはこの事件から社会は何を学んだのかということ。
 いや、正確に言えば何一つ学べていないことが露呈するだけなのだということ。

 芽は17年も前から、いや、おそらくはもっと前からあった。
 それは「オタク」というキーワード。

 「宮崎勤の部屋」は当時かなりセンセーショナルに取り上げられた。マンガやアニメのビデオなどがうずたかく積もれた部屋。これぞオタクといわんばかりの部屋は当時かなり奇妙で不気味なものだったはずだ。

 だが、今やオタクは一時なりともブームとなり、ちょっとマンガが好きなだけの子供でさえ同人誌に手を出す時代。
 消費者としてオタクが認められた時代。

 本当にオタクは認められたのだろうか?
 そうじゃないと思う。
 オタクというキーワードによって受け止められたのは単に見世物に過ぎない、特異な人間としての存在だ。それは理解とは程遠いもの。

 最高裁の判決を見てコメントを述べる人たちを見てもたぶん彼らは「オタク」を理解してなどいない。できないのだろう。
 社会的な枠組みの外に存在する彼らを見て、違和感しか抱けない人間には理解できない。

 そしてその理解できないことが現代を作り上げたのだ。

 芽はあった。理解して、対策を考えればもう少し違った時代になったのではないかとも思う。
 もちろんそうではなかった可能性も高い。
 だが、それでも。

 「オタク」を理解する。
 それは現代にかせられたコミュニケーションに対しての問題に向き合うということだ。
 それはたぶんうまくいかないだろうけれども。

 だからきっとこれからも時代は悪くなるのだと思うのです。